たからもの②~原点回帰~その3


こんばんは(^^)

最近、息子がやたらと喋ってくれます😌

一番はっきり言うのは

『ビールぅ🍺』
将来酒飲み確定です(笑)





酒飲みの我が家の子どもだなと感心しています(^-^)

さて、本日は
たからもの②~原点回帰~その3です!

とうとう完結するはずです(^_^;)

よろしくお願いしますm(__)m

たからもの②~原点回帰~その1
https://tanoshiminomichi.blogspot.com/2019/11/1.html
たからもの②~原点回帰~その2
https://tanoshiminomichi.blogspot.com/2019/12/2.html


猛勉強の末一級建築士の受験に失敗した私

家族全員が合格すると思い込んでいたもんですから、


緊急で第1回孝治の今後どないすんねん会議


が開催されました。

父は、試験に落ちたのは息子(私)の責任、潔く本部青年に入るように勧め、

その他の家族は、あと一歩で一級建築士合格したことには違いないので、来年再チャレンジしたらどうや!



と勧められました。
(私はうなだれ何でもいいよ…と言う状態でした)

結局、一級建築士の試験も受けて、

本部青年に入るという折衷案になり、
13月は予備校代を含めて受験費用をバイトで稼ぎ、

46月は修養科(3ヶ月間泊まり込みで天理教の勉強をします)、

7月は教人資格検定講習(修養科より、もう少し進んだ天理教の勉強をします)

89月は一級建築士受験勉強

10月一級建築士試験本番、

11月教会長資格検定講習(天理教の教会の教会長にたる資格を取得できます)、

終わり次第本部青年として、天理教の教会本部で勤めさせて頂くことになりました。



4月からは高校時代からの友人が同じタイミングで修養科に入ることを知った私は友人の所属する教会八木大教会から一緒に修養科に通わせて頂くことになりました。

そこで、4月の教祖傳の授業にて

「本当のたすかり」というお話を教えて頂きました。

※以下天理教の本当のたすかりというお話の内容です


教祖傳逸話篇一四七 本当のたすかり

大和の国倉橋村の山本与平妻いさは、
明治15年ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。

が、そのあと手が少し震えて、なかなかよくならない。少しのことであったが、当人はこれを苦にしていた。

それで、明治17年夏、おぢばに帰り、教祖にお目にかかって、その震える手を出して、「お息をかけて頂きとうございます」と願った。

※教祖とは、私たちに初めて天理教の教えを説いてくださり、自らが身をもって私たち信者が進むべき信仰生活をお示し下された方です

すると教祖は「息かけるは、いとたやすいことやが、あんたは足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かることばかり願うが、真に救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろう。これを写してもろて、たえず読むのやで」とお諭し下されて、おふでさき17号全冊をお貸し下された。

この時以来、手の震えは、一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に移してもらったおふでさきを生涯いつも読ませて頂いた。そして、誰を見ても熱心ににをいがけさせて頂き、89歳まで長生きさせて頂いた。


それを聞いた私は、心の底から生きていてよかった!と思えたのです。

私は、本来ならば、母親のお腹の中で死んでいたかもしれない

本当だったら、右半身は全く動かないことも考えられた。

それを今日まで、右半身が不自由であること、他の人と同じように運動が出来ないこと等ばかりに気を取られていましたが、

生きていることの素晴らしさ、有り難さを初めて感じたのでした。私は、修養科中に生まれ変わることが出来たのでした。



これが私の原点回帰であります。

私は身上を頂いてから、その意味に気付くまで実に約14年間かかりました。

その14年間にあった出来事の多くは思い出したくない程私にとっては、辛いものでした。しかし、

私は、教祖の「貧に落ちきれ、貧に落ちきらねば難儀なる者の味がわからん」とお言葉があるように、

悩み苦しんだ経験、そして今も生き返ることのない脳みその一部、不自由な右半身を持つ私だからこそ出来るおたすけがあると思ったのです。

この体は本当にたからものであります。私はこのお借りした体を使って神様に、教祖に恩返しさせて頂こうと思い、毎日務めさせて頂いています。

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