たんのうとは②

夜分失礼します。
本勤中弟です。
もうすぐクリスマスですね


前回に引き続き、たんのうのお話を。
前回記事
『たんのうについて①』




大雨で持ち山が崩れ
田地が流されてしまった山中忠七先生に
教祖は言いました。



「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」
(逸話篇二十一『結構や、結構や』)



 この後々という言葉が重要です。

前回の投稿の冒頭で、涵養と書きました。
成人していけば
すぐに喜びとして受け取れるでしょう。
しかしそれは簡単ではありません。


何度も出して申し訳ないのですが、
兄の身上の障り。
恐らく兄もすぐに
結構の心でならん中たんのう
となった訳ではないでしょう。

やりきれない思いも沢山あったと思います。
しかし、そこにある親心を
ゆっくりゆっくりと味わって、
「ありがたいありがたい」と
喜びに変えていったのでしょう。

兄は私には語りませんが、
結構の心でならん中たんのう」を
してくれていたのだと思います。
つまり、目の前の様々な苦難から
親神様の思召を感じ、
ありがたいと喜ぶ心です。



一つのものや出来事を味わい尽くして喜ぶ事。
これこそがたんのうだとだと私は思います。


昔聞いたお話ですが、
人間の脳を科学の力で作ると、
三百兆円かかると言われています。
身体もすごいらしいですよ


しかし、二つの事が再現できないそうです。
それは
「忘れる事」
「過去の出来事を好意的に捉え直す事」


後者は「結構の心でならん中たんのう」
そのものです。親神様はなぜ、
辛い事を良い思い出に変える機能をつけたか。
それは言うまでもないでしょう。
 先述しましたが、
「結構の心でならん中たんのう」と思う事は
容易ではありません。
しかし、普段取るに足らないと
思っている事を「満足の心で十分たんのう」
する事はできます。
教祖は、



「この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」
(逸話篇百三十五『皆丸い心で』)


と仰っています。

人々の心をおたすけできるのは、
このたんのうだと僕は思います。
特に、未信者さんよりも信仰している人を
助けられるんじゃないかな、と。


たんのうは
しんどい言葉じゃない。
楽しむ言葉です。


ようぼくお互いで、
喜べる事も悲しい事も
味わい尽くしたんのうして
陽気ぐらしへの道を一緒に進みましょう!


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