たんのうとは①

こんばんは!
境内掛弟です。
本勤なうです。



今日はたんのうについて
思うところを書いていきたいと思います。


たんのうとは
『自分の身に降りかかる
全ての出来事に対し、
それを心の成人を促して下さる
親神の思召と受け取り、
満足と感謝の念を持って
通る精神の涵養が大事とされる』
と書いていました。

涵養とは、
水が自然に染み込むように
無理をしないでゆっくりと
養い育てる事です。


教内では、たんのうと言えば
辛い時や悲しい時に
使われるイメージがあります。
ネガティブな印象ですね、正直。


しかしよくよく考えてみると、
たんのうは
「満足する心で十分たんのう」
「結構の心でならん中たんのう」
の2つがあると思うんです。

どういう事かと言うと、
決して悲しみに限らず
嬉しい事も楽しい事も、
どんな事も十分に
たんのうさせていただけるという事です。



僕が修養科に行っていた時。
楽しかった修養科876期

いつも風呂上がりに
ストレッチをしていました。
最初はガチガチに固い身体も、
日が経つにつれて
少しずつ柔らかくなっていきます。


名札が黄色に変わる頃、
私はある事に気付きました。


詰所と修養科の行き帰りが疲れない。
それどころか、楽しいと感じていたのです。
もちろん慣れてきたのもありますが、
筋肉が柔らかくなって
今までは使っていなかった筋肉も使われて、
身体が非常にスムーズに動かせていたのです。

一歩一歩すら楽しく、
今までどれだけ無駄な力を
使っていたのだろうと思った程です。



 多少の手入れはしたものの、
これは先述の「満足の心で十分たんのう」
させていただいたという訳です。
つまり、今そこにある
当たり前だと思うものや
出来事を十分に味わい、
100%ではなく、
120も150も喜ぶという事。

当たり前だと思っているうちは
味わい尽くしていないんです。
私も歩くという事は当たり前だと思い、
100%どころか80%ほどしか
味わっていなかったんです。



この「満足の心で十分たんのう」
は簡単にできますが、
その分忘れられがちです。
しかし紛れもなく親神様のご守護です。


『日々に理を忘れて理が立つか』
(明治三十四、二、四)


日々の御守護を忘れない為には、
やはりひのきしんや
朝夕のおつとめが大事なんです。

僕のイメージですが、
「たんのう」「いんねん」は
お道の中でイメージが悪く、
それをゴリ押しされて離れていく人が
多い印象です。


ですが、悪い意味合いといいますか
辛いときに使うばかりではないと思うんです。
今回書いた、「満足の心で十分たんのう」
こういう考え方の方がむしろお道らしい。


このお道は楽しみの道ですから、お互いに
こういう言葉を使っていきたいですね。




次はもう一つの
「結構の心でならん中たんのう」
について書きたいと思います。



おやすみなさい!!

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