こんばんは(^^)兄です!
最近つくづく毎日の出来事をどう受け止めるのかだなと思います!
どういうことかというと、
最近、我が子が色々と怪我をすることがありました。
11日に私は妹と買い物に行く約束をしていました。
その前に妻が子どもたちを連れて参拝に行くと出掛けた矢先で
息子が転んで、神殿の階段の角に頭をぶつけてしまいました。
息子はすぐに大泣きしましたが、その後ケロっとした態度。頭を打ったことから病院に連れていきました。
また、昨日次女が机の角に頭をぶつけ、目の横を切ってしまいました。
こちらも目自体は怪我しておらず大事には至りませんでした。
立て続けに起こった2つの怪我に対して
『大事に発展せずに済んでよかったなぁ』
との思いと
『悪いことが続いてなんか不安だなぁ』
との思いが共存しモヤモヤしています。
今回は私のすぐ近くで起こった怪我ではなく、その瞬間私は怪我を防ぐことは出来ない状況でした。
また、逆に妻が近くにいたからといって必ず防げたということでは無いと思います。
そんなことを考えてる内に
我が子を危険から守ろうとするならば、
我が子の動きをガチガチに制限したり、
片時も側を離れずにいたり、
机の角や棚の角を養生材で保護してみたり、
どの方法を考えても100%安全とは言えないものだと思いました。
そこで、逆に考えたのです。
1日、怪我なく過ごすことって奇跡的なんだということです。
滅多に起こらない怪我と思っていても日常生活の空間には至るところに危険が潜んでいるし、
それを100%取り除けないとしたら
いざという怪我はいつでも起こりうるのです。(当たり前のことですが…(^_^;))
私は、だからこそ毎日神様に無事に過ごせたことをお礼するんだなとも思ったのです。
前にとある天理教の先生から
『心の守りは身の守り』
ということを教えてもらったのを思い出しました。
教えを守ることが身を守って頂くことに繋がるんだよ!ということです。
天理教の教えの中でも、聞かせてもらった話をなるほど!と思ってすぐ実践してみることが可能なものもあります。
そうやって、実践していくなかで、喜べない不安ななかで少しした気付き(ヒント)を見つけられ、そこからどう前向きに捉えようとする中で、
大きな問題と捉えていたものが、実はこの程度で済んでよかったなと思えることが出来るのだと思います。
そして、天理教の教えは『毎日を喜ぶこと』がその根源にあるのだなと感じています。
今回は私の身の回りで子供の怪我を通して考える機会を与えられたなと思います。
世の中には沢山のルールがあり、それらも日常の危険から私たちを守ってくれている
しかし、ルールがあるからこそ、絶対大丈夫です!ってことにはなりません。
だからこそ、
毎日元気でいてくれてありがとう♪
毎日家のことをしてくれてありがとう♪
当たり前じゃない奇跡的な毎日をありがとう♪
何もない日こそサイコーなんだ!
そう思って明日からまた気合いいれて頑張っていきます(^^)
今日もお疲れ様でした(^^)
あたりまえに感謝、ですね
返信削除コメントありがとうございます(^^)
削除はい!しみじみと当たり前って有り難いんだなぁと感じる日々です!