こんばんは!実は、先日…
天理教のお話会と言う場で初めてお話をさせて頂く機会を頂きました!
お話し会とは、天理教の教えを、未だ天理教を知らない人にも理解してもらえるように分かりやすくお話する会となっています。
初めての場で緊張も極限の状態ではありましたが、何とか無事つとめさせていただきました。
(今となっては分かりやすかったのかどうか…と思っています (汗))
しかし!お話の内容が良かったよとの優しいお声を頂いたので、
ブログにて紹介させて頂こうと思います。
長文ですが、最後までお付き合いください(^^♪
※以下、お話し会原稿です。
私の名前は篠森孝治と言います。出身はここ天理市です。
家族構成は、
夫婦喧嘩はレクリエーションと豪語する両親、
その両親から生まれた姉、私、弟、妹の4人の個性派兄弟、
私より男前の妻1人と、愛する子どもたち3人で、毎日陽気に暮らしています。
先日、私はクタクタに疲れた状態で、家に帰り、夕食を食べていました。
『はあ、クタクタや』と心の中で呟きながらご飯を食べていたのです。
すると、隣に座っていた娘がこう言いました。
『とうたん!ご飯美味しいね!』
夕食の後、子供たちとお風呂に入った時、また娘がこういうのです。
『お風呂温かいね!』
そして、お風呂から上がり、家族みんなで布団に入った時に娘が
『みんな一緒、嬉しいね!』
と言ってきたのです。私はその時、はっとさせられたことがありました。
私にとって、その日は誰とも話したくないなとさえ思っている状態でした。しかし、
娘にとっては、
家族みんなで食べるご飯も、
温かいお風呂に浸かることも、
家族みんなで寝ることも、
全て喜びの瞬間だったのです。私も娘も同じように過ごしていましたが、心の感じ方一つで、毎日の生活が感動の連続になるのだなと感じたのでした。
今お話したように、心の感じ方一つで毎日の生活は劇的に変化します。しかし、簡単に心の感じ方を変える、ものの見方を変えると言っても、すぐに変えることは難しいと思います。
しかし、そのきっかけの1つとして、もっと大変なことを想像する力があるなと思います。そのように思ったきっかけをお話します。
皆さん突然ですが、私は今、病気を抱えています。何だと思いますか?
見た目では気づかれない病気なので、分からないと思います。
実は、私の左脳の一部は母のお腹の中にいた時、つまり胎児の時にすでに死んでいたのです。
そして、1年後の同じ日に私は再び引き付けを起こしました。主治医からは、
『引き付けを抑える強い薬を飲みましょう』
と勧められましたが、父は、
『次に引き付けが起きたら必ず薬は飲ませます。なので、今回は飲まずに済みませんか』
とお願いしてくれ、薬は飲まずに済みました。
その後、4年弱で仕事を辞めることになり、再び営繕部長の元へ挨拶に行くと、
『よく頑張った、1年間休憩してええぞ!』
と言われました。ん?休憩?と思いましたが、突如として私はニートになっのでした。26歳のニートの毎日は暇です。何かしようと思い、一級建築士の資格を取ろうと決めました。
何もすることが無かった私は1日15時間以上勉強し、最終試験である製図試験後の予備校の模擬採点で100点満点中94点を叩き出しました。予備校の先生や生徒達と熱い握手を交わし、家でも、『おめでとう』のシャワーを全身に浴び、
見事に落ちました。
12月の雪の降りそうなくらい寒い日でした。
家族も、予備校の方々も、何より私自身が合格を信じていた為、第1回篠森孝治これかどないすんねん会議が開催されました。父は、一級建築士になれなかったのは私の自己責任なので、天理教教会本部で青年勤めをせよ!と言いました。母や兄弟たちは『不合格だったがあともう一歩だったことに違いはない!来年もう一回チャレンジしたらどうや』と真っ向から意見が対立し、うなだれて居る私を無視して、来年の私の予定が決まりました。
天理教のお話会と言う場で初めてお話をさせて頂く機会を頂きました!
お話し会とは、天理教の教えを、未だ天理教を知らない人にも理解してもらえるように分かりやすくお話する会となっています。
初めての場で緊張も極限の状態ではありましたが、何とか無事つとめさせていただきました。
(今となっては分かりやすかったのかどうか…と思っています (汗))
皆さんこんにちは!お話し会に参加頂きありがとうございます。簡単に自己紹介をします。
家族構成は、
夫婦喧嘩はレクリエーションと豪語する両親、
その両親から生まれた姉、私、弟、妹の4人の個性派兄弟、
私より男前の妻1人と、愛する子どもたち3人で、毎日陽気に暮らしています。
先日、私はクタクタに疲れた状態で、家に帰り、夕食を食べていました。
『はあ、クタクタや』と心の中で呟きながらご飯を食べていたのです。
すると、隣に座っていた娘がこう言いました。
『とうたん!ご飯美味しいね!』
夕食の後、子供たちとお風呂に入った時、また娘がこういうのです。
『お風呂温かいね!』
そして、お風呂から上がり、家族みんなで布団に入った時に娘が
『みんな一緒、嬉しいね!』
と言ってきたのです。私はその時、はっとさせられたことがありました。
私にとって、その日は誰とも話したくないなとさえ思っている状態でした。しかし、
娘にとっては、
家族みんなで食べるご飯も、
温かいお風呂に浸かることも、
家族みんなで寝ることも、
全て喜びの瞬間だったのです。私も娘も同じように過ごしていましたが、心の感じ方一つで、毎日の生活が感動の連続になるのだなと感じたのでした。
さて、本日は「こころ」をテーマにお話します。
今お話したように、心の感じ方一つで毎日の生活は劇的に変化します。しかし、簡単に心の感じ方を変える、ものの見方を変えると言っても、すぐに変えることは難しいと思います。
しかし、そのきっかけの1つとして、もっと大変なことを想像する力があるなと思います。そのように思ったきっかけをお話します。
皆さん突然ですが、私は今、病気を抱えています。何だと思いますか?
見た目では気づかれない病気なので、分からないと思います。
実は、私の左脳の一部は母のお腹の中にいた時、つまり胎児の時にすでに死んでいたのです。
それに気づかされたのは今から20年程前、中学校2年生の時に遡ります。
ある日、私は母と姉の合唱コンサートを聞きに出かけた所で引き付けを起こし、倒れました。倒れた瞬間、既に意識を失っており、体は硬直し、白目で泡を吹いており、救急車で病院に運ばれたとのことでした。
ひきつけの原因を調べる為に様々な検査を受け、主治医の先生からこう言われました。
『あなたの左脳の一部が死んでいます。おそらく、母親のお腹にいる頃に脳梗塞を起こし、脳みその一部が死んだ状態で生まれたのでしょう。その影響で右半身の神経が発達していません。今回引き付けを起こしたのは、思春期によるホルモンバランスの変化により、死んだはずの脳細胞の一部が悪さをしたのかもしれません。今後も引き付けを起こす可能性があります』
その時見せてもらったレントゲンでは、
私の脳みそに黒くなっている部分が見られ、
神経の写真は細く今にも切れそうな神経が右半身に通っていました。
更に主治医から
『君、右半身動かしにくくないの?』
とさらっと言われましたが、その時既に私の頭の中は真っ白になっていました。それからの生活は、非常に辛いものでした。
具体的には中学2年生~高校生の間お風呂は、1人では入れず、兄弟と必ず一緒に入ります。寝る時も両親と同じ部屋で寝ます。頭に衝撃を与えるような激しい運動は出来ません。今後も継続して検査を受けるというものでした。
私は、ただ単に不器用だと思っていた右半身は、脳の一部が死んでおり、今後スムーズに動かすことが出来ない。また、普通の人と違うんだと思うことでコンプレックスを感じるようになりました。
そして、1年後の同じ日に私は再び引き付けを起こしました。主治医からは、
『引き付けを抑える強い薬を飲みましょう』
と勧められましたが、父は、
『次に引き付けが起きたら必ず薬は飲ませます。なので、今回は飲まずに済みませんか』
とお願いしてくれ、薬は飲まずに済みました。
しかし、私の心は増々荒みました。私は、家族、特に両親から可哀想な子だという扱いをされるのが嫌で心がふさぎ込んでいくようになりました。
そして、月日は流れ、高校三年生になった私は、今後の進路を考えることになります。
私は親元から遠く離れたい!
との強い思いから関東地方の大学に進学を決めました。初めての寮生活でしたが、次第に満喫するようになりました。大学3年生には就職も関東でしようと思いましたが、人間関係に悩み、引きこもりになり寮から一歩も外に出なくなりました。就活は当然のように失敗し、地元に帰り天理教内の現在勤めている営繕部で勤めることにななったのです。
そして、これからのお世話になる天理教営繕部の部長に父と挨拶に向かうと、
『お前は大学卒業して戻ってきても役に立たん。世間で勉強して来い!』
と言われ、突然大阪での就職が決定!まんまと就職した私は、毎晩のように飲み歩きました。大学時代の友人も大阪で就職しており、度々友人宅で宿泊させてもらい、極力家には帰らないように生活していました。
その後、4年弱で仕事を辞めることになり、再び営繕部長の元へ挨拶に行くと、
『よく頑張った、1年間休憩してええぞ!』
と言われました。ん?休憩?と思いましたが、突如として私はニートになっのでした。26歳のニートの毎日は暇です。何かしようと思い、一級建築士の資格を取ろうと決めました。
何もすることが無かった私は1日15時間以上勉強し、最終試験である製図試験後の予備校の模擬採点で100点満点中94点を叩き出しました。予備校の先生や生徒達と熱い握手を交わし、家でも、『おめでとう』のシャワーを全身に浴び、
見事に落ちました。
12月の雪の降りそうなくらい寒い日でした。
家族も、予備校の方々も、何より私自身が合格を信じていた為、第1回篠森孝治これかどないすんねん会議が開催されました。父は、一級建築士になれなかったのは私の自己責任なので、天理教教会本部で青年勤めをせよ!と言いました。母や兄弟たちは『不合格だったがあともう一歩だったことに違いはない!来年もう一回チャレンジしたらどうや』と真っ向から意見が対立し、うなだれて居る私を無視して、来年の私の予定が決まりました。
その中で、4~6月に修養科と言う、合宿生活を送りながら、天理教の教えを学ぶことになりました。そこで、私は生まれ変わったのです!
修養科の授業で本当のたすかりという話を聞かせてもらったのでした。
教祖傳逸話篇一四七 本当のたすかり
私はこのお話を聞いた時、私のことだと思い、涙が止まりませんでした。
続いて、私の父の話をします。せっかくなので父の紹介をします。
今現在も、父は減塩生活を送っています。が、少々困ったことになっています。有難いことなのですが、元気になってきたのです。
大和の国倉橋村の山本与平妻いさは、明治15年ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。が、そのあと手が少し震えて、なかなかよくならない。少しのことであったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治17年夏、おぢばに帰り、教祖にお目にかかって、その震える手を出して、「お息をかけて頂きとうございます」と願った。すると教祖は「息かけるは、いとたやすいことやが、あんたは足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かることばかり願うが、真に救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろう。これを写してもろて、たえず読むのやで」とお諭し下されて、おふでさき17号全冊をお貸し下された。この時以来、手の震えは、一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に移してもらったおふでさきを生涯いつも読ませて頂いた。そして、誰を見ても熱心ににをいがけさせて頂き、89歳まで長生きさせて頂いた。
私はこのお話を聞いた時、私のことだと思い、涙が止まりませんでした。
私は、母から生まれてくる前に脳梗塞にかかっていると診断されました。もしかしたら、死んでいたかもしれない。
右半身の神経が発達しなかったは、もしかしたら右半身不随になっていたのかもしれない。
2度目の引き付けの時、副作用の強い薬を飲んでいれば、今の生活は送れていなかったかもしれない。
1人でお風呂に入っていた時に引き付けを起こしていれば、死んでいたかもしれない。
今生きている、そのことに感謝の気持ちが生まれた瞬間です。
母のお腹の中で既になくなっていた命を助けて頂いていたんだな。それを、少し体が不自由だったり、運動が出来ない程度のことで、悩んでいたんだな。
始めに引き付けを起こしてから14年が経過していまいした。毎日生きていてうれしいなと心の底から思えたのです。
これが、私にとってのもっと大変なことを想像する力の元になっています。根源にあるのは感謝の気持ち、毎日は、思っている以上に感謝で溢れているな、そう感じています。
続いて、私の父の話をします。せっかくなので父の紹介をします。
父の名前は、健治と言います。小学校5年生までアメリカで過ごした帰国子女ですが、活舌が悪すぎて、英語で話すと誰も聞き取れません。また、人よりもゴリラに限りなく近いです。お酒、特にウイスキーが好きで、昔はよく左手に2ℓのウイスキーのペットボトル、右手にロックグラスを持ち自宅内を徘徊するのが好きでした。元ラグビー選手で早稲田大学ラグビー部OB、副キャプテン兼マネージャーだったそうですが、では面影なく、毛根の過疎化が進み、砂漠化が刻一刻と近づいています。
そんな父が昨年の3月26日倒れました。突然の知らせに、半信半疑だったことを思い出します。
父が倒れた原因は「急性大動脈解離」でした。
大動脈解離とは、血管は複数の膜に覆われているそうですが、その一番内側の膜が破れたのです。心臓の付け根付近から肺の下あたりまで、血管が割けていたそうです。
父が倒れた瞬間、天理教教会本部敷地内にいました。近くに、父と顔見知りの職員がおり、迅速に対応し、病院に運んでくてたお蔭で、何とか一命を取り止めました。対応してくれた方が、
『私は、今回と同じような場面に何度か立ち会わせてもらったが、助かった人を見たことがない』
と言われましたが、本当に奇跡的に命が助かったそうです。病院に運ばれた後、ICUで管だらけになった父を見て、言葉を失いました。
その場で、おさづけを取次ぎ、父を無事助けて頂けるように神様にお願いし、その日は帰りました。主治医に父の状態を聞くと、大動脈の裂け目から血が漏れて、外側の膜との隙間が膨らむ動脈瘤が普通なら出来るのが、裂け目が血で固まり、動脈瘤を抑制しているとのことでした。
しかし、いつ動脈瘤になるかもしれない状態とのことから、入院して経過観察を行い、緊急時には私に連絡が来ることになりました。
いつ父の容態が急変するかもしれない。父が出直すかもしれない。鳴るかもしれない電話を意識し過ぎて眠れない日が続きました。しかし、容態は悪化することなく一般病棟に移れることになり、沢山の方がお見舞いにきて下さりました。また、神様に無事助かるようにおさづけをして、お願いしてくださいました。その中の一人がこうおっしゃいました。
『父は、毎日出勤時は歩いて、ゴミ拾いをしていた。毎日神様に喜んでもらえる行いをしていたから、急な病気も助けて頂けたんやな』
私たち家族も父がゴミ拾いをしていることは知っていました。家族は父が毎日のゴミ拾いをしていたように、毎日神様に喜んで頂ける生活を心掛けるようになりました。
ところが、4月5日の検査結果で、今まで血管の裂け目を閉じてくれていた血の塊が流れて、血管が膨らみ始めたと医者から報告がありました。心臓に近い部分の血管の裂け目が心臓に到達したら命は助からない、よって心臓に近い部分を人工血管に変える手術を翌6日にするとのことでした。
私たち家族で、父のたすかりを神様にお願いしましたが、その時私は病気を通じて、本当に有難いなと感じることがありました。
父が奇跡的に命を助けて頂いたことは本当に有難いことです。
それに、沢山の方が父のたすかりを願ってくださった。
また、私たち自身も信仰があるからこそ、父の為に助かりを願うことが出来て、父の為に24時間何かすることが出来る。こんなに有難いことはないなと感じていたのです。
手術は無事終わり、その後の回復も凄まじく、19日には無事退院しました。しかし、手術では親族付近の血管を人工血管に置換しただけで、心臓から遠い位置の血管は未だに割けた状態とのことでした。その日から父は減塩生活を余儀なくされます。
退院した日の夕食は減塩豆腐ハンバーグ、家族みんなで父と同じ大根おろしと七味唐辛子で食べました。本当に美味しかったのです!
今現在も、父は減塩生活を送っています。が、少々困ったことになっています。有難いことなのですが、元気になってきたのです。
どういうことかと言うと、父は元来、お酒が大好き!醤油も料理が真っ黒になるくらいかける超辛党なのでした。
それが、一食に対して2gの塩しかとることが出来ません。2gという量はどれ位の量か想像つくでしょうか。醤油大さじ一杯で何gの塩分が入っているかご存知ですか?約2.5gなんだそうです。一食分以上の量ですね。
更にお酒も飲めません。退院当初は、
『生きているだけで有難いな』
と言っていた父も日がたてば、隠れて、醤油を使いたがったり、父専用の減塩調味料を揃えたのに、どさくさに紛れて、普通の調味料を使用していたり、隠れてお酒を飲んだり…徐々に好き放題を始めるようになったのです。
当然家族は父の行動1つ1つに不満を持ち始めます。
『助かった命をなんだと思っているの?』
『あなたは、一生分のお酒と醤油を使ったんじゃないの?だから、今の姿があるんじゃないの?』
『もっと、慎んで食べて欲しい』
等々、父の体調を思えばこその発言ではあるものの、
父は決まって
『ごちゃごちゃ言うな!!』
と怒ってしまいます。私も最初は、父は自分の体の事を全く心配していないのではないか。それどころか、自分はどうなってもいい。と考えているのではないかとさえ思うようになっていました。また、父の為に別のおかずを調理し、味付けや塩分が控えめとなるように工夫している家族に申し訳ないとか思わないのかなど不満は溜まる一方です。
しかし、ある時ふと気づいたのです。私たち家族は、良かれと思って、父に口うるさく注意していましたが、父の気持ちを全く考えていなかったのです。父は入院中から減塩生活をしていたことは事実であり、大好きなお酒やタバコも辞め、一番努力しているのは間違いなく父なのです。
そこで、父に変わってもらいたい!そう思うのならば、まずは自分の心を変える必要があるんじゃないかと考えるようになったのです。
まずは、父とその他の家族の中立の立場を取るように心がけ、何か言い争いが起きれば、父の味方もすると共に、家族全員の父に元気でいて欲しい気持ちを伝えられるように心がけています。まだまだ、上手くはいきませんが、徐々に家族全員で父の病気と仲良く付き合っていけるようにしたいと考えています。
私たちは、神様よりこの体、目に映るこの世界全ては神様からのかりものであり、神様から陽気に暮らす為にお借りしているものです。そして、私たちの心だけが自分のものであり、自分の使った心遣いが周りに映ると教えて頂いています。
私自身の体についての話では、自分の病気にコンプレックスを抱えて生活していましたが、本当なら、死んでいたかもしれない。生きていても現在のような生活や、それこそ、今日ここでお話しすることは出来なかったかもしれない。そんな気づきが、私の今見えている世界を変えてくれました。皆さんの心の中にもコンプレックスや悩みを抱えている方もおられると思います。そのことは、悪いことではありません。それどころか、いつか財産になると思うのです。
私は、見かけには分からない病気のお蔭で、同じく、見た目では分からない悩みを抱えた方や、私の病気の話を聞いて感銘を受けた方から悩み事等の相談をしてもらうことがあります。今は、この体を神様から貸して頂いて有難いなぁとしみじみ思うのです。
また父についての話では、誰かの〇〇が△△ならいいのにと、誰かの嫌な所等が変わることを求めていることは、よくあるのではないでしょうか。私にもそのようなことが沢山あります。
しかし、それでは周りの人は変わらないどころか、父のように逆にへそを曲げてしまう、そんな時が多いのではないでしょうか。それは、周囲の人の苛立ちや不満の心が相手に映ってしまっているのではないでしょうか。では、どうすればいいのか、まずは、上手くいかないことに対し、自分の今までの気持ちに向き合い、反省することが大切です。そして、父の体調が心配だからこそ、父の心に寄り添い、家族の気持ちも理解した上で父も、母や兄弟たち等、皆が喜べるように心を使うことで、自然と周囲の人たちも心が変わっていくのではないでしょうか。現在、私は両親のお願いには、即返事、即行動を意識して行動しています。家族みんなが笑っていれば、その他の色々なことはどうにかなる大丈夫だと思っています。
本日はこころをテーマに、天理教のかしもの・かりもののお話をさせて頂ました。本当に、自分のこころの感じ方一つでこの世界の見え方は違ってきます。本日のお話をきっかけに、今自分の仕事や家庭での日常生活で、喜べるところはないか、探してみてください。また、苦手な人がいれば、なぜ苦手なのか、相手のことを少しでも考えてみてください。そして、何か自分の接し方、言葉遣いを変えてみましょう。そうすることにより、昨日より今日、今日より明日が喜び多い日となれば幸いです。これで、私の話は終わりにします。最後まで、聞いていただきありがとうございました。
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