楽しめ楽しめ

こんにちは!
弟でおます。


最近好きな音楽はnulbarich。
ユルめの音楽でいい感じ。
おすすめです。






さて、先日Twitterで
「幸福タイプ診断」
なるものがありました。

この診断には
「もう少し、他人の目線を気にせず、
マイペースに物事に取り組むことで、
さらに幸福感を感じられすはずです。」
と書かれていました。

耳が痛いというか
恥ずかしいというか…(笑)



何度かこのブログに書いている事ですが、
僕は人に劣等感を抱きやすく
良くも悪くも人と比べてしまいます。


良くない事だなーと常々思っています。
何かと常に戦っているみたいな
気持ちになりますし…


相対的な幸せは絶対的な幸せよりも
得やすく、崩れやすいです。

すぐに今あるの幸せを忘れて
「あの人いいなー」と
人の幸せと自分の幸せを見比べてしまう。

そういう幸せの感じ方をしてしまうと、
どれだけ美味しいモノを食べても
おしゃれな服を着ても
その場は満たされるけれど、
またすぐ物足りなくなる。


まさに
よくにきりないどろみづや
こころすみきれごくらくや」
(十下り目)


欲は満たされることがない。
心を澄み切らせて、今自分にある
幸せを感じれるのが大事なんだと思います。





と思いつつも…なかなか。





そんな中、
心に刺さる言葉がありました。
それは「楽しめ楽しめ」
例によって知っていた言葉ですが、
改めて読むと
僕の心にスッと入ってきました。


由来は天理教の原典『逸話篇』です。



 明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。
 正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた。そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、
『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな。』
と、仰せられていたところでした。」と、言った。
 りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ。」と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、
「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜んでいたなあ。
さあさあ親神が十分々々受け取るで。
どんな事も皆受け取る。守護するで。
楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。
 それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。

(逸話篇44「雪の日」)




「これだ!!」と思いました。

何でも楽しんだら
神様が御守護して下さるんや!
人と比べるとかではなく、
目の前の出来事を純粋に楽しむ。
楽しむ気持ちの時は相対的も何もない。

ただただ楽しむ。


そう思うと急に心が軽くなりました。
そこから、何かあるごとに
心の中で「楽しめ楽しめ」
とつぶやいています。








また放っておくとすぐに
劣等感を抱いてしまいますが、
それに気をつけて毎日
「楽しめ楽しめ」で過ごしたいと
思いました。

そして、人との違いを楽しんで
一緒に陽気ぐらしへと
歩んでいきたいと思いましたとさ。







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